第7章 名劇の幕開け
杉浦啓介は謝罪という任務を終え、上機嫌のまま立ち去った。
杉浦家の人間は皆、宴の準備に追われている。屋敷はふたたび静けさを取り戻した。
……その静けさが、十分後に破られる。藤原智彦が来たのだ。
杉浦杏奈の寝室の前に姿を現した藤原智彦の背後では、使用人が橙色のギフトボックスをいくつも抱えている。
杏奈は胸の内で冷たく笑った。ルールは知っている。藤原智彦が杉浦美雪にバッグを買うとき、杏奈に回ってくるのは「抱き合わせ」の品だけ。
スカーフ、香水、小さなチャーム――カウンターで「一緒に買っていただく必要がある」と勧められる、あの手の付属品。
前の人生の自分は、こんなものでも長いこと浮かれていた。思い出すだけで、馬鹿らしくて仕方ない。
「杏奈、今日は怖い思いをしただろう」
藤原智彦は断りもなく寝室へ入ってくる。
「これは、君のために選んだ」
使用人たちは箱を置くと、静かに下がった。
藤原智彦はソファに腰を下ろし、視線を杏奈に貼りつけるようにした。
ゆったりしたカーディガン。少し開いた襟元から、首に残る青紫の指の痕が、ちらりと覗く。
髪はまだ乾ききっておらず、濡れた束が鎖骨に張り付いていた。雫が肌を伝い、襟の奥へ滑り落ちる。
シャツは身体にぴたりと沿っている。……下に何も着けていないのがわかった。布越しに、尖りの形がかすかに浮く。
藤原智彦の喉仏が、ごくりと上下した。口の中が乾く。
杉浦杏奈が美人なのは、ずっと前から知っていた。杉浦家のお嬢様、界隈では有名な美貌だ。
けれど、付き合いが長すぎたせいか――追いかけてくる女など面白くない、と勝手に思い込んでいた。
そこへ杉浦美雪が現れ、彼はあっさり溺れた。
……だが、今日の杏奈は違う。
シャツが包む輪郭が、やけに生々しい。こんなに胸が大きく、腰が細く、脚が長いなんて。
藤原智彦は、何もかも引き裂いてしまいたい衝動に駆られた。
「杏奈」
立ち上がり、彼女の前へ。見下ろす。
「本当に、怖かっただろ?」
彼は杏奈の手を取って、白い手の甲を何度も撫でた。
杏奈は顔を上げ、彼の目を見返す。胸の奥の狂躁が、喉元までせり上がってくる。
――知っている、その目。
前の人生、クラブで。近づいてくる男たちは皆、同じ目をしていた。粘つくように不快で、獣みたいに欲をむき出しにした目。
笑いたくなる。
前の人生の藤原智彦は、口では杉浦美雪を愛していると言い張り、杏奈には指一本触れなかった。
そのときの自分は、彼が「大切にしてくれている」のだと勘違いした。……違う。触れたくても触れないんじゃない。触れる価値がないと思っていただけ。
体外受精で妊娠させ、最後まで身体に触れずに済ませたのも、杉浦美雪を悲しませたくない――そんな自己満足のため。
それが今、この「一途な男」は、獲物を値踏みする目で杏奈を見ている。
吐き気がした。
……けれど、杏奈は避けない。
視線を伏せ、まつ毛を小さく震わせる。
「智彦……私、今日はすごく怖かった」
「大丈夫だ」
藤原智彦は杏奈を抱き寄せ、背中を撫でる手がすぐにいやらしく動いた。
「俺がいる」
杏奈は顔を上げる。目尻に薄く赤みを滲ませて、彼を見つめた。
濡れた瞳。脆さ。言葉にできない迷い。
――この瞬間が、いちばん綺麗に見える。
男はこういう顔をした女を、どうしようもなく乱暴に抱きたくなる。杏奈はそれを知っている。何度も練習した。発散させてやれば、少なくとも殴られずに済むから。
藤原智彦は、胸の奥を何かに掴まれた気がした。
その痛みはすぐ、もっと原始的で直接的な衝動へと変わる。
彼は杏奈の腰を強く抱き、身体を密着させる。前屈みになって唇を奪おうとした。
杏奈は避けない。だが迎えもしない。瞳の奥に、怯えだけを残す。
藤原智彦の息が荒くなる。
――勃っているのがわかった。
その瞬間、杏奈はふっと顔を背け、腕の中から抜け出した。
「智彦……今日は、気分がよくないの」
そう言って、自分の首元へ手をやる。
「怪我もしてるし」
藤原智彦の動きが止まった。
胸は上下し、欲望は目に残ったまま。下半身はまだ、隠しようもなく反応している。
杏奈は背を向けたまま、淡々と続ける。
「先に帰って。美雪、まだ病院でしょ……私、今はそんな気分じゃない」
杉浦美雪の名を出された途端、藤原智彦は大きく息を吸い、無理やり欲を押し込めた。
襟元を整え、掠れた声で言う。
「ゆっくり休め。……明日また来る」
振り返ることすらできない。見れば、また理性が切れる気がした。
窓の外でエンジン音がする。藤原智彦が去ったのだとわかる。
杏奈は舌打ちをひとつして、浴室へ入った。シャワーを捻る。
冷たい水を浴び続け、皮膚を強く擦った。赤くなるまで、破れそうになるまで。
無傷の身体を見つめるほどに、脳裏へ蘇る。
――クラブの男たち。笑い声。伸びてくる手。
杏奈は前屈みになり、えづいた。だが何も出ない。
顔の水を拭い、深く息を吸う。鏡の中の自分へ、笑みを浮かべた。
どこかで憂さを晴らさないと、気が狂う。
病院。
VIPフロアは静まり返っている。聞こえるのは、女の甘い笑い声と、男の荒い息遣いだけ。
杏奈は病室の前に立ち、扉の隙間越しに、中で絡み合う二人を黙って見た――藤原智彦と杉浦美雪。
唇を貪り合い、離れない。美雪は下着だけの姿になり、藤原智彦の手がショーツへ伸びる。
だが美雪が慌てて止めた。
「智彦、待って……ここじゃだめ」
杏奈はそれ以上見ず、踵を返した。エレベーターで下へ降り、1階の自販機へ向かう。
そして迷いなく、ラテックス製のコンドームを1箱買った。
藤原智彦がラテックスに重度のアレルギーがあるのは知っている。触れれば発疹が出る。ひどいと息が詰まる。
箱を見下ろし、杏奈は口元を釣り上げた。
次に、配達員を捕まえて言った。VIP病室へ届けさせる。
藤原智彦がコンドームを見て、それでも使わずにいられるなら――男じゃない。
配達員が届けた頃、杉浦美雪は浴室にいた。
「杉浦さんからのお届け物です」
その一言で、藤原智彦の疑いは消えた。
彼は箱を手に、晴れやかに笑う。材質のことなど頭から抜け落ちている。
美雪が浴室から出た瞬間、藤原智彦は彼女をベッドへ押し倒した。
「可愛いな。気が利く」
杉浦美雪の顔が一瞬だけ曇った。だがすぐ、照れた表情に塗り替えられる。彼が用意したのだと、勝手に思い込んだのだろう。
杏奈は頃合いだと判断し、見物に行こうとした。
「面白いか?」
背後から低い声。
杏奈の全身が一瞬で強張った。
振り向く。
灰原仁司が、いつの間にか立っていた。今日の黒い礼服のまま。廊下の薄暗い光に溶け込み、ただ目だけが異様に冴えている。
……けれど、彼は杏奈を見ていない。
視線は廊下の突き当たり、どこか一点へ落ちていた。
杏奈は拳を握りしめる。だがすぐ、力を抜いた。半歩退いて距離を取る。
「灰原さん、こんな深夜に病院で散歩?」
灰原仁司は答えない。そのまま踵を返す。
残したのは、一言だけ。
「杉浦陽向が下にいる」
